#論文筋トレ

日本で所蔵されていた一枚の『独立宣言書』


여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!



一学期15週なのですが、今週で11週目となりました。
夏休み入ったら一度は日本に戻りたいなと思っていますが、どうなることやら。

授業のほうでも扱っている本が変わりましたので、それに伴って読んでいる論文のテーマも多少変わっています。


今回は、3・1独立運動における『独立宣言書』に関する論文です。




前提知識



2019年2月に、長崎県の個人宅に現存していたことが報道されています。

該当記事はこちらから↓
朝鮮「3・1独立運動」独立宣言書、長崎の個人宅に現存(朝日新聞)



今回の記事は、平壌で陶器商を営んでいた祖父(佐藤芳兵)の遺品のなかにあった、一枚の『独立宣言書』を、2011年当時所蔵していた佐藤正夫氏による研究ノートを扱います。

のちに、佐藤さんはこの宣言書を韓国・天安の独立記念館に寄贈されました。(2019.6)
(ひと)佐藤正夫さん 3・1独立宣言書を韓国に寄贈した(朝日新聞)



論文というよりは簡単なレポートみたいな感じなので普段よりさらにギュッと要約して紹介します。



『宣言書』について検証されていること



筆者の手元にある『宣言書』をもとに、4つの疑問を提示し、これらについて検証されています。


・宣言書の第一行目で「朝鮮」となるべきところが、「鮮朝」と誤植印刷されています。
→⑴なぜ一行目に「鮮朝」と誤植(ごしょく、ミス)があるのか

・また、宣言書は不自然に横に長く、縦幅も不均等で、さらに印刷全体が右下に傾いています。
→⑵なぜ印刷が右下がりになっているのか

・宣言書についている折り線が、四つ折りと六つ折りの2種類あります。
→⑶なぜ2種類の折り線があるのか
→⑷誰がなぜ折り方を変えたのか



『宣言書』が現存する価値


⑴なぜ一行目に「鮮朝」と誤植(ごしょく、ミス)があるのか
⑵なぜ印刷が右下がりになっているのか

崔南善(チェ・ナムソン)により草稿が2月27日までに完成し、京城(現・ソウル)の普成社(建物は景福宮近くにありました。今も跡地碑を確認することができます)にて、27日午後5時頃から印刷に入りました。

ところが準備されていた用紙と、活字の版組が合わなかったために組版を組み替え、鉛版を作って印刷したようです。



⑶なぜ2種類の折り線があるのか
⑷誰がなぜ折り方を変えたのか

平壌では3月1日の集会で宣言書が撒布(まき散らすこと)されており、そのほか約2万1千枚があらかじめ決められた担当者によって全土に配送されていたようです。

しかし官憲により既に28日夜に宣言書が発見され、その後、内偵が進められて署名者(民族代表33名)は1日午前中には全員の所在不明が判明していたとの記録があります。

極めて短期間のうちに全国に配送されたと同時に、官憲によって押収されていました。

官憲側の記録によれば、独立宣言書の署名者の中に『宣言書』を読めない人もいたようで、『宣言書』を暗記し、それを唱えながらの示威(デモ)活動をしていました。人々が「独立万歳」を唱え、太極旗を振り、『宣言書』を配っているということ自体に大きな意義があったとします。
そのため官憲側には、3・1運動の拡大は『宣言書』との関わりが大きいとの認識があり、『宣言書』および謄写版などの押収に力が入れられていました。

(3月1日に東京に着いた林圭は、翻訳された『宣言書』、そのほか要請書が謄写版印刷し、内閣総理大臣(原敬)、衆議院貴族院、尾崎行雄、犬養毅など代議士90名、吉野作造、安倍磯雄など著名人20名、各新聞社、出版社、大学などへ発送しました。ところがこの件に関して無罪となりました。それほど官憲側は『宣言書』から発生する騒動に対して警戒していたのです。)


またもちろん、『宣言書』を隠し持った者の検挙も多数ありました。そんななか、この著者の祖父である佐藤芳兵が入手して保管し続けていたのです。

一度は四つ折りであった『宣言書』が、保管する積極的意図で筐に入れられ、その際に六つ折りに折り直されたのだろうと、著者は指摘しています。


論文*
佐藤正夫, 「三・一独立運動における『独立宣言書』の展開とその意義–平壌における一事例より」, 『東洋文化研究』(13), 学習院大学, 2011-03.





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