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朝鮮と台湾での公園管理



여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!


今回は、これまでにも何度か紹介してきた植民地下におけるまちづくりに関する論文です。

日本統治下にあった朝鮮と台湾における公園を、どのように管理していたのかということを端的にまとめてみました。



ちなみに関連記事として、以下も読んでみてください。

植民地時代のソウルでの都市計画
風水地理説の否定だったのか?:京城におけるまちづくり



朝鮮における公園事業



1889年に仁川済物浦(さいもっぽ)居留地に各国(萬国)公園が設けられました。

その後、1890年に日本人居留地と仁川監理署との間で土地契約を結んで、日本人公園を設け、そこには仁川大神宮が創設されました。(1916年に仁川神社と改称されました)


ところが仁川済物浦(さいもっぽ)居留地の不振により、貿易中心地が京城開市場へと移りました。この時、公園形成も京城へと受け継がれることになります。

日本人も同じく京城へ移って南山付近に居住することになり、京城日本人居留民会が南山麓に京城神社(1899年)、またこれを中心として倭城台公園(南山北面一帯)を設けました。
そして1910年には南山西側に朝鮮神宮と漢陽公園が建てられ、倭城台公園を中心として漢陽公園まで至る一帯が南山公園として朝鮮神宮の風致に結び付けられることになります。



台湾の公園行政



1895年5月10日に台湾総督府が置かれた台湾では、施政と同時に公園が設置されるようになりました。

1900年に官幣大社・台湾神社が建てられ、その境内地周辺と一体になった公園が形成されましたが、1905年には総督府から台北庁へ公園が移管されて、公園行政は引き継がれることになります。


朝鮮と台湾の違い



朝鮮では、朝鮮人の絶対多数が居住する北部一帯には公園という名称もありませんでした。
唯一公園を意識したものは1897年、旧韓国政府の下に設けられたパゴダ公園で、3・1運動が行われた場所です。ここは3・1運動以降、民族的な自覚を促す存在となっていました。

一方の台湾では民族的な象徴としての公園を持ち得ていませんでした。
そのため1907年には台北庁長の行政的な管理権限が明確にされた上で公園管理規則が定められ、1920年には公園経営が各地方公共団体の市街庄費で行われることになりました。


つまり、植民地の公園行政は、国策化事業への役割を担っていたものだったと著者はまとめています。



論文*
柳五郎, 「日本統治下の朝鮮・台湾における公演問題」, 『造園雑誌』(56), 社団法人日本造園学会, 1993.



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