#論文筋トレ

朝鮮神宮で祀る神を巡る論争

여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!



今回で、論文リポートの記事が5件目となりました。今週は課題の量が先週と比べてそこまで多くなかったので大きな負担なくできたのですが、来週以降も末長く継続するためにバランスを考慮して、平日5日間の更新を目指していこうと思います。


また、授業関連の論文をチョイスして紹介しているため、一定期間はテーマが偏るようなところもあるかと思いますが、そこらへんはご理解ください。


それでは今回は、植民地時代のソウルでの都市計画の記事を発展させて、「朝鮮神宮」に関する論文を扱います。

ただ、これはかなり難しい内容だと思ったので、ここでは本当に簡単にまとめます。詳しく気になる方は論文検索して読んでみてください。



前提知識



朝鮮総督府は植民地朝鮮期、南山(ソウルタワーのあるところ)に「朝鮮神宮」を建立させました。


「朝鮮半島の総鎮守」の官幣大社(社格:神社の格式)として、天照大神と明治天皇の二つの祭神を祀ったのですが、

実は朝鮮神宮が建てられる直前(1925年)、日本人の神社関係者によって、「朝鮮神宮には朝鮮国土の神を祀るべし」との「檀君奉斎論」主張があり、論争が起きました。(この論争を研究者は「朝鮮神宮 御祭神(ごさいじん)論争」と呼んでいます。)



「朝鮮神宮」に対する従来の認識



まず、官幣大社の事例を確認します。

朝鮮神宮の前に海外に建てられた官幣大社:台湾神社、樺太神社、札幌神社は、開拓三神(大国魂命、大己貴命、少彦名命)を奉斎(神仏を祀ること)しました。

朝鮮神宮以降に建てられた官幣大社:南洋神社、関東神宮ほかは、皇祖神を奉斎しました。



この傾向から、前後の歴史事実を踏まえ、従来は、

<為政者・征服者の権力象徴としての「皇祖神」=「官」>
vs.
<土着・先住神信仰尊重としての「国魂」「檀君」=「民」>


という図式で捉えられており、

朝鮮神宮が建てられた以降、「皇祖神の奉斎を強いられたことで→土着神の信仰が圧殺された」と認識されています。


ところが、これは必ずしも朝鮮半島の神社の事例(朝鮮神宮に限らず)に当てはまる認識ではないとして、研究者は否定しています。
理由は以下の2点です。

⑴「皇祖神」奉斎を主張または実行していたのは民間人で、「皇祖神」は近代日本の国民意識に直結する象徴としての崇敬対象であった。現地人の崇敬を要求していない例がある。
⑶朝鮮では「国魂大神」という祭神が1929年の京城神社に増祀されて以降、大陸各地域でも奉斎されるのだが、「朝鮮国魂神(くにたまのかみ)」とも呼ばれていた。


土着性をどのように取り込んだのか



このことから、研究者は、必ずしも<皇祖神>vs.<檀君>という対立関係にあるものではないと述べ、また、これら二つは日韓同祖論に依拠している共通点があると指摘しています。


日韓同祖論による神話解釈2つは以下の通りです。

⑴政府・総督府側の「皇祖神」奉斎論:
近世までの大陸中心の儒教的華夷秩序に代わって近代型の日本中心華夷秩序を構築する。

⑵「檀君」奉斎論:
姉神・天照大御神の日本と、弟神・素盞嗚尊(スサノオノミコト)の韓国、という日本を中心に、日韓を包括する秩序を模索する。

※ちなみに、当時「檀君」の実在は歴史学的に認識されておらず、現在ほど檀君神話は浸透していませんでした。この時の論争がきっかけで、朝鮮の祖先とされる「檀君」を「朝鮮国魂神」として奉斎することになり、3.1独立運動以降の抗日運動および独立を経て定着しました。


「檀君」奉斎論によって伝統は創出されるのであり、これに合わせて朝鮮の神社も創られるべきだとされました。この論争の中で、檀君は「朝鮮国魂神」とされ、京城神社以降は「国魂大神」が奉斎されることになります。
(「朝鮮」の文字が消えたのは、総督府がおそらく神名中に「朝鮮国」の文字があるのを嫌ったため。)

そして「国魂大神」は実は檀君なのだ、という認識は朝鮮側にもいくらかは生まれたそうですが、「朝鮮国魂神」という呼称を否定した時に、土着性は奪われました。
「国魂大神」は朝鮮を「地方」として一般化させ、権力行使の対象とすることにつながっていったと指摘しています。



論文*
菅浩二, 「「朝鮮神宮御祭神論争」再解釈の試み」, 『宗教と社会』(5), 「宗教と社会」学会, 1999.


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