
朝鮮神宮と「都市軸」
여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!
毎日、課題に追われて忙しいからやめようかなと思って、
でもやっぱり続けようとなんとか、続けています。
これがいつかなにかに繋がればいいなあ。と思っていますが、どうかなあ。
この作業を続ける前にも感覚的に気づいていましたが、実際にこれを始めてから分かったことが一つ。
正直、私が関わろうとしている分野において、日本のコミュニティで認めてもらうことが一番難しいということ。日本人が韓国で、という形は受け入れてもらいやすいけども、日本でのニーズはなし。本当に、友達1人から「読んだよー」とリアクションがある以外は、ほかに全くありません。
ただ、日韓の問題って結局は内なる問題と向き合うことだと、私は気がつき始めました。日韓問題を巡って相手のことをよく見ていたら、自分の問題に気が付くということ。Man in the Mirrorみたいな。
つまり、ここで私は、日本人にもっと興味を持ってもらわなければいけないという結論を出しました。まずは身近な人から。日韓問題をただの外交問題、歴史問題に片付けてはいけない。そんな私の問題意識が伝わったらいいなあと考えています。
と、まあ自分の話を書いてしまったら長くなってしまったので改めまして、
今回もまた、どこかで見たような話ですが、植民地朝鮮におけるまちづくりについてです。
ちなみに、一昨日この記事で↓紹介した論文の研究者が、2005年に発表した論文です。
風水地理説の否定だったのか?:京城におけるまちづくり
朝鮮神宮鎮座の地
総督府は1912年から4年にわたって調査を行い、1919年、漢陽公園のあった南山に「朝鮮神宮」を鎮座しました。
広い敷地と眺望の優位性ゆえに鎮座されており、日本統治の顕彰は付随的であったとします。つまり、結果的に旧日本人居留地に近接していたにすぎないと指摘しています。
官庁施設と街
朝鮮総督府は、老朽化と庁舎分散を解消するため、景福宮内の勤政殿前に庁舎を新築しました。
(ちなみに、街路から「威容を正視」すべく庁舎の軸線は、太平通(り)に合わせたとされています。また、光化門通(り)に合わせなかったのは、この時点では既存街路のままで未整備だったからだといいます。)
京城府庁舎は、京城府が事業主体となって建築しました。
総督府庁舎と京城府庁舎が体系的マスタープランに則っていたわけでないので、結果的に「都市軸」が形成されたといいます。
朝鮮神宮と京城のまち
ここで研究者は、総督府→南大門→朝鮮神宮という総督の移動がなかったことも踏まえて、
・朝鮮神宮は日本の植民地統治に果たした役割は大きく、京城市街の主要施設であったとはいえるが、
・「都市軸」を形成することは当初からの目的ではなく、結果論であり
・官庁施設との対応関係は見出せず、街路骨格を規程するほどの影響を与えていない
と、以上3点を結論づけています。
論文*
五島寧, 「京城市区改正と朝鮮神宮の関係についての歴史的研究」, 『都市計画論文集』(40), 公益社団法人 日本都市計画学会, 2005.