
東アジアの「勤勉革命」
여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!
今日は、最近追っていた内容のもので、やっと理解できた論文を紹介します。
東アジアの経済発展径路が、西ヨーロッパの経済発展径路と比べてどのように異なるのか、という主旨のものなのですが、うまく要約できているかわかりません。
ただ、東アジアが生活水準の低下を伴わずに、どうして人口を維持できたのかという、グローバル・ヒストリー研究の一つの焦点にもなるテーマですので、興味のある方は是非。
東アジア型発展の特徴
東アジア全体として、土地が、西ヨーロッパより稀少でした。また、小経営が中心でした。こうした天然資源の制約(土地の稀少性)を、技術的・制度的工夫を凝らすことによって克服し、生活水準の緩慢(かんまん)な上昇を達成したものと考えられます。
ここでの特徴は以下2点。
1. 労働集約的「技術」
マニュアル化された、書かれた情報のかたちによって、知識の移転が行われており、
言語や文化の相違を超えて(中国→日本など)伝播していた。
鎖国下においても、経済的知識*の移転は若干の書物の輸入などを通じて行われていた。
※この時の知識とは、抽象的原理ではなく、過去の経験の蓄積に裏付けられた「信頼できる知識reliable knowledge」だった。
2. 労働吸収的「制度」
激しい政治的な変化や生産様式の変動を経ても長期間にわたって制度が継続するにあたっては、国民国家ではなく、小さな単位(世帯および村落共同体)が鍵となっていた。
→要素賦存(ふそん)、技術、制度の3つには一義的な因果関係はなく、相互促進的に径路が形成された。
東アジア型発展径路=勤勉革命?
東アジアの小農世帯では、わずかな土地にできるだけ多くの労働を投入することで最偉大限のコメの収穫を試みました。
ここでは、一つの仕事に特化するのではなく<多くの異なった仕事をこなす能力、個人の才能を伸ばすよりは<家族のほかの構成員と協力して仕事をする能力、
状況に柔軟に対応し、経営に関する問題を察知して潜在的な困難を予想・予防する能力、
要するに経営的熟練が求められたのです。
分業を階級分化で実現させたイングランドと比べ、東アジアの小農経済では、みずからの努力や工夫を報酬につなげて考えることができたのです。(チャンドラーは、世帯主が消費と貯蓄の比率を決定し、努力を報酬につなげる「見える手」として機能していたといいます。)
東アジア型発展径路の本質は、一定の制度的枠組みのなかで、労働の動機付けと効率に関する有効な方法を考えさせることで、良質の労働力を引き出すところにあったのです。
これがつまり、「勤勉革命」と定義されていることなのです。
(補足)
また、あくまで市場ではなく、市場に入る前の生産再度の革新、とくに労働力の引き出しと陶冶(とうや、性質や才能を鍛えて練り上げること)に、東アジア型発展径路のポイントがあった。
生産サイドの効率の向上によって主導されるのであり、内包的成長と市場の発展の間には多様な関係がある。
←→西ヨーロッパにおける勤勉革命とは、世帯の効用を最大化する目的で市場における財を購入するために、労働の配分を直接消費のため→市場向けに転換することだった。(この点、東アジアにおいては自給生産と市場向け生産とを明確に区別しない柔軟さが効率的な労働吸収の条件だった。)
東アジア型径路
16-18世紀の東アジアでは、
土地の制約にもかかわらず、労働集約的技術と労働吸収的制度の発展を通じて、生産の拡大が実現していました。
地理的分業や都市化がそれほど進まなくても、人口増加に見合う生産量の増大と、労働生産性の上昇が可能だったのである。
(解説)
日本では、労働集約的技術*1と労働吸収的制度*2の発展があったため、マルサスの罠に陥らずに済んだ。この時、土地や人口の増加を伴わない効率性の上昇があった(=これは「内包的成長」である)。
※1…二毛作、乾田馬耕の普及。さらにコメが主食、且つ主要な商品作物であったために、二重経済化(商品作物部門だけに技術革新の努力が集中する)する傾向はほとんど見られなかった。
※2…江戸時代(1700-1850年)の日本においては、利用可能な労働力も土地も増えず、人口増加(=労働投入)という外延的成長がなかった。しかし、労働集約的技術の発展が労働吸収を可能にしたことにより、一人当たりの農業生産率は増加した=効率性が改善した。
西洋の発展径路は、人間以外の資源を動員してなされたのに対し、東アジアでは人的資源を動員してなされたという点が異なっている。
これまで、産業革命以前の経済発展を産業革命以降のそれと対比すると、内包的成長<外延的成長(生産性の上昇なしに労働、土地、資本などの投入の結果起こる成長)がイメージされてきた。しかし、実際には純粋な外延的成長はなかった。
東アジア型径路では、強い人口圧は外延的成長と同時に、内包的成長も促しがちだったのである。
つまり、内包的成長と外延的成長は相互代替的、且つ相互補完的だった。
西ヨーロッパとの比較
東アジアに比べ牧草地の比率がはるかに高く、ここで得る飼料が家畜の再生産を支えていた。また、牧草地がしだいに輪作地に転換されたり、休閑の高度な技術が発展したり、「農耕=牧畜径路」と呼ぶべき径路が発達していた。そこでは物産複合(主穀生産のほかに羊毛、肉などを組み合わせて生産)が追求され、同時に動物のエネルギーが生産や交通に利用されていました。
技術、制度の革新の方向は労働生産性の向上を図っており、農場を経営するのに資本というものを考慮する習慣がついていました。(農業を数年単位で考えていた)
他方、稲作農耕径路である東アジア農業は、あくまでも稲作を基本とするサイクルを効率化するため、一年単位の経営を着実に繰り返すことを基本的な農業観としていました。
土地生産性においては稲作農耕経路、労働生産性においては西ヨーロッパが勝っていたが、どちらが決定的な優位を示していたとは言えない。
日本の位置
江戸時代における石高制と参勤交代制度、そして遠隔地貿易(輸出品の長崎への輸送、輸入品の大阪・江戸への輸送)という、国家に誘導された市場発展のリンクによって、プロト工業化(農村部における手工業生産の拡大)が加速した。
18世紀後半以降、藩主は貨幣獲得のために農業・商業・工業振興政策を打ち出した。→大衆消費市場拡大の一助になった。
重商主義的政策の普及などによって、都市→農村へのノウハウの移転があり、世帯や村落共同体が外部市場のために競争力のある地方産品を作るようになったのである。
つまり、国家のイニシアチブによって、全国市場が発達したのである。
東アジアのなかで日本だけが可能だった理由は、
1.自立的な行政単位としての村の確立
中央集権的権力のなかで、村民には自治場の行政上の自治が与えられ、「村切り(村の境界線を厳格に管理)」によって、行政単位上は、土地市場の発達と資本蓄積が制限された。一方で武士階級と徴税人は村の行政に介入せず、村の安定と平和を維持した。→農民に土地と労働のマネジメントへの最強のインセンティブを与えた。
2.外国人との接触を管理
対外的には銀を中心とする大量の貿易が平和裏に行われ+国内で規制された市場を育てる自由が確保された。
労働吸収や労働力の質の向上が見られたため、東アジアでは共通の「勤勉革命径路」が成立しました。
さらに日本は、強い中央集権的な国家を擁していたために、最も徹底して径路を追求することができたのです。
(補足)
石高制は、年貢が米納であったことから稲作への集中と土地生産性の上昇に焦点を上げた。また、兵農分離は大都市や城下町におけるコメそのほかの消費財の需要を生み出した。
参勤交代によって、全国網が形成され、地方の名産品が江戸で交換されるようになった。
参考論文*
杉原薫, 「東アジアにおける勤勉革命径路の成立」, 『大阪大学経済学』54(3), 336-361, 大阪大学大学院経済学研究科資料室, 2004-12.