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植民地時代のソウルでの都市計画

여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!


植民地時代の朝鮮において、景観づくりが行われていたということをなんとなく知っている人は多いと思います。



前提知識



ソウルの歴史*
李氏朝鮮時代の1394年、風水地理説によって遷都された都市「漢城(ハンソン)」でしたが、日本の植民地時代「京城(ケソン、日本ではケイジョウと読まれています)」に名称が変更されました。

しかし影響はもちろん、都市の名前が変わっただけではなく、都市の景観も変わったという歴史があります。
例えば、もともと「崇礼門(スンネムン)」と呼ばれていたものを「南大門」、そのほか「東大門」「西大門」と名称変更したことは多くの方が知っている話だと思います。


植民地都市の特徴



日本が植民地統治していた都市の特徴は3つに分類できます。
⑴日本の支配とともに形成された都市
⑵伝統的都市の上に形成された都市
⑶既存の都市の近くに日本が新しい町を建設して形成された都市

このうちソウルは⑵にあてはまり、平壌、工業地帯で知られる開城、あとは台湾の台北、台南なども含まれます。ソウルは現状社会の景観を残したまま、日本人街をつくることで発展しました。


しかし、そもそも日本の近代化は、西洋近代化を取り込むことで成立したために、ソウルは<伝統的要素+日本の要素+西洋近代の要素>が合わさって形成されました。
そのため、政治経済に関係する場所には西洋風建築日本の文化や精神に関係する場所には日本の建築が用いられました。


ランドマークとなった2つの建造物



しかし、支配者と被支配者の差別的格差が存在したため、日本人の住む南部区域と、朝鮮人の住む北部区域の二分化構造となっていました。

そこで日本のランドマークが少なかった北部区域の中心に朝鮮総督府庁舎、南部区域には朝鮮神宮が建てられ、ソウルを南北で挟み込みました。

*朝鮮総督府庁舎
日本の朝鮮統治と近代化の象徴として、1926年に景福宮の前に建てられました。
*朝鮮神宮
天照大神と明治天皇の二つの祭神を祀る日本人の文化・精神的シンボルとして、伊勢神宮と同じ「神明造」の様式でした。国家主導で、南山に建立されました。(ソウルタワーのある場所が南山です)


脱植民地と向き合う現在のソウル


戦後、日本植民地期のランドマークをどうするか、ということが当然議論の対象になります。

日本が開発のためにつくった建物や道路は破壊の対象にならず、朝鮮総督府庁舎は政府庁舎、その後国立中央博物館として存続しました。
一方で、象徴的で、且つ利用性のない朝鮮神宮は破壊の対象となりました。


現在、南山には安重根義士記念館、独立運動家の金九と李始英の銅像が建てられ、反日の英雄を顕彰する場所となりました。
また、総督府庁舎があった世宗路には李舜臣の銅像が建てられ、韓国政治的態度を表象しています。


旧総督府庁舎は1995年8月15日の光復50周年の日に解体されましたが、日本の植民地期以前のソウルの姿に復元しようとする傾向は現在まで続いており、韓国の内政と関係しながら読み替えられており、平和的解決に結びつくような都市空間の再構造が必要だと指摘しています。




論文*
中村香代子, 「ソウルの植民地経験と反日表象空間のメカニズム」, 『社学研論集』(10), 早稲田大学大学院 社会科学研究科, 2007.




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