
植民地朝鮮における博覧会を支えた人と町
여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!
最近、どうも似たり寄ったりな内容になっていることが否めませんが、今週の課題に関わる論文を読んだので、今回はそれを扱います。
植民地朝鮮における博覧会の開催と京城のまちづくりに関する論文です。
ちなみにこの↓記事で紹介した論文が、先行文献として挙げられていましたので、こちらも是非。
植民地朝鮮を魅了した博覧会
博覧会の開催を支えたもの
朝鮮で初めて開かれた博覧会は、1906年4〜7月に釜山で開かれた「日韓博覧会」です。
*「倭館」など外交施設を備えており、日本との物流や貿易の拠点であった釜山では、早くから日本人居留民社会が形成されていたために開催が可能でした。
*目的は「日韓貿易の発達に資する為」であり、朝鮮居住の日本人商工人たちの、日本から輸入した工産品と、朝鮮で生産されるコメを始めとする穀物や特産品が主要な展示出品目でありました。
その後、1910年の日韓併合と同時に総督府が設置され、官制改革と行政施設の改編が行われて、朝鮮の伝統産業復興が目指されました。
日本人の制作や販売への介入によって日本式の運営へとかわっていったことが成功して、
1915年に施政5年記念で開かれた「朝鮮物産共進会」では、朝鮮伝統工芸品が展示・陳列されて好評を得ることになります。
商工人の存在が博覧会の開催を支えていました。
京城のまちづくり
1910年の日韓併合に伴い、朝鮮国王高宗が国名とした「大韓帝国」は再び「朝鮮」に改められ、首都の名称「漢城」は、日本の「都」を表す名称としての「京」を使った「京城」に改称されました。
1915年の「朝鮮物産共進会」では景福宮が会場となり、旧王朝は「聖域」から「公共の場」へと変換されていきました。
また、朝鮮王宮の敷地に博物館も設立された為、朝鮮の歴史にも触れられる国民のアイデンティティを確立する公共の空間となり、伝統的権威の破壊と新しい文物の蘇生を表象することになりました。
ただ、一方で日本人居留民と朝鮮人が暮らす空間は全く異なる「民族別居住空間の分離」が起きていたため、1920年代は独立運動が盛り上がることになります。
そこで空間の分離を和らげるための都市計画が進められ、朝鮮神宮が造営されたり、景福宮の前に朝鮮総督府が建てられたりしました。
つまり、1915年の「朝鮮物産共進会」では新旧の対比を強調するものだったとすれば、1925年の「朝鮮博覧会」はさまざまな民族間の空間的分離と葛藤が融合しあう空間としての演出を目指したものだったと言えると研究者はまとめています。
論文*
朴美貞, 「植民地朝鮮の博覧会事業と京城の空間形成」, 『立命館言語文化研究』21(4), 立命館大学国際言語文化研究所, 2010.