
植民地期をどう捉えるか:植民地近代性
여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!
毎日続けるのって大変だなあと思い始めて、実際これ自体が筋トレみたいな感覚なので、カテゴリー名を「論文筋トレ」に変えました。
今回は、よくある「植民地期をどう捉えるか」という論争で大事な近代性について扱っている論文を紹介します。
よくある論争の概要をきちんとおさえるべきだと思うので、簡単にまとめています。
植民地時代をどう研究するか
従来、韓国国内では日本支配下におかれた時代を「あるべきではなかった」時間、「あってはほしくなかった」空間(つまり、静態的かつ停滞的に認識、または前後の時期とは断絶的に把握していました)と把握してきたため、本格的な議論に値しないと言う先入観から脱却できませんでした。
ところが近年、新たな研究動向が生まれているとして、研究者は以下の3つを紹介しています。
⑴植民地期を朝鮮史の長期変動の中で把握する
(つまりその前後と分離して論ずるのではなく、長期的な変動の中に位置付けて考察する)
⑵帝国政府、植民地政府、土着社会のアクター別の相互連関を通じて理解する
(帝国政府の意図を貫徹させることに対する障壁が存在しており、植民地政府による調整機能を媒介として現地社会の日常的抵抗が緩和されていた実情を踏まえている)
⑶「固有の時間」「固有の空間」つまり「日常性」をもって植民地を把握する
(植民地帝国日本の形成過程において、国民国家の流れと帝国主義化あるいは「グローバル化」=反国民国家化の流れが、同時並行的に進展していた)
植民地社会像をめぐる「近代性」
植民地社会雑をめぐり、「植民地収奪論」と「植民地近代化論」の論争が起こりました。
*植民地収奪論
政治的抑圧と経済的搾取により、朝鮮の「近代化」を徹底的に阻止した日本の支配を告発・糾弾する。国民国家の成立こそが「近代化」の達成であったとしています。つまりここでは、日本の植民地支配とは「近代化」の阻害要因として理解されています。
*植民地近代化論
日本の植民地支配が朝鮮社会の近代化を促進したという側面を、正当に評価すべきことを説いています。
植民地公共性
植民地公共性の形成により、被統治者の多くが、敵の完全打倒や全面否定ではなく、交渉と妥協を優先して自己の意思の部分的実現を成就させる手法を体得していました。
仮に統治者によって暴力的対応がとられた場合には、「公益」や「公安」の名のもとに「合理的」手続きを根拠とする行為の合法化や正当化が図られていました。そしてまた、被統治者も暴力的対応が見られた事はありましたが、言論の手段や、政治機構への参与を通じて意思実現の試図がなされていました。
つまり、統治者と被統治者における、相互の議論、取引がありました。それが、公共性です。
親日派をどう見るか
従来、自己の政権や運動の「正統性」確保のため個人を捨てて国家や民族に殉ずる「大義」と、個人的願望のために国家や民族を裏切る「不義」を対照的に描写する、二者択一的な歴史観でもって歴史叙述をおこなってきました。
ところが近年では、新たにグレーゾーンという概念を介在させることで、異民族支配下における複合的な対応を、より微妙に、よる多義的に解明することを志しています。
毎日の生存状態が切迫していた状況において、(親日派といわれる者たちの生き方は)主体的かつ積極的な選択肢の一つであったと、正当に評価されなければならないとしています。
論文*
並木真人, 「朝鮮における「植民地近代性」・「植民地公共性」・対日協力-植民地政治史・社会史研究のための予備的考察」, 『国際交流研究』(5), フェリス女学院大学, 2003.
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