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風水地理説の否定だったのか?:京城におけるまちづくり


여러분 안녕하세요. みなさんこんにちは。
アンナです。
今日も訪問ありがとうございます!



最近は毎日やることが多くて、少しでも外出してしまうと色々と切羽詰まって大変ですが、目の前のできることからコツコツやっていきます。

今回は、今学期の授業の内容であるためすでに一度、紹介した植民地時代の町づくりについてです。
総督府庁舎と朝鮮神宮の設置に関する研究を扱います。


前回の記事はこちらから。
植民地時代のソウルでの都市計画



前提知識



日本統治下の朝鮮・京城(現・ソウル)では、都市空間の改造が行われました。
その代表例として朝鮮総督府の庁舎と、朝鮮神宮を挙げることができます。

ちなみに、地形や水の流れから土地の良し悪しを判断するのが風水地理説なのですが、
総督府の都市計画実施によって土地の形質が変わって地脈の切断が起き、土地の正気が消滅するという理由で朝鮮人が抵抗していたという背景があることも知っておいてください。


また、朝鮮神宮に関しては、こちらも是非。
朝鮮神宮で祀る神を巡る論争


景福宮に建てられた朝鮮総督府



1395年に李氏朝鮮王朝の正宮として建てられた景福宮は、文禄の役で燃えてしまい、大院君によって1865年に再建されました。
その後、乙未政変で1897年、高宗が徳寿宮へと逃れたため、景福宮には誰も住んでいませんでした。

1910年の日韓併合後、総督府は旧統監府や旧大韓帝国政府の庁舎を使っていましたが、木造建てで老朽化が激しかったため、1912年予算として、朝鮮神宮とともに建築計画が組み込まれました。
<市街地枢要の位置にあって><見合うだけの敷地があり>且つ<威容を正視する>という条件に合った旧統監府庁舎に、増築する形となりました。

ちなみに、資材は全て朝鮮産とする方針であったため、外壁の花崗岩仕上げの低廉化にはなりましたが、内装の大理石調達のため新たな石山を開発することになったため、結局は高価な犠牲を払うことになりました。



韓国ではかねてより、風水における伝統景観が破壊されたという批判が存在する点について研究者は、
当時の朝鮮総督府は風水を意識して地形を改造したわけではなく、視覚的演出を意図した都市計画であったと指摘しています。


朝鮮神宮を鎮座する


1919年に創立された「朝鮮神社」は、天照大神を祭神としていることから1925年「朝鮮神宮」と改称されました。

鎮座された南山は、文禄の役の際に日本の武将が陣を構えたという言い伝えから「倭城台」という地名が存在しており、また日本人居住発祥の中心地でもあったため、日本人に親しまれていました。

市街地を俯瞰する緑に囲まれた高地という物理的条件が重視されて鎮座されたようで、また一方で、風水地理説で「案山」とみなされていることと朝鮮神宮の位置の関連を言及した資料は存在しないとして、
こちらもやはり、意図的な破壊を狙ったものではないとしています。



以上の2点のことから研究者は、風水地理説や伝統景観が総督府による町づくりに影響した可能性は希薄だと指摘しています。



論文*
五島寧, 「植民地『京城』における総督府庁舎と朝鮮神宮の設置に関する研究」, 『都市計画論文集』(29), 公益社団法人 日本都市計画学会, 1994.


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